12月 2008
19件の投稿
写真について 18
知人の女性が教えてくれた話だ。
あるとき彼女が公園で花壇に咲く花を携帯で写真を撮っていた。その時何か自分が見られているような感じを受けた。少し首を動かし視界を変えてみると、そこに一眼レフのカメラを彼女に向けている男性の姿を見つけた。彼女はそのカメラを凝視する。するとその男性はカメラの先を少しずらし何食わぬ顔で周囲を撮っているようなそぶりを見せた。
彼女は彼に意識して、それでもなお花壇の花を撮り続けた。でもまたカメラが自分に向けられているような感じを受け、再度彼を見つめる。少しの間があり、そのうちにその男性が彼女の元に近づき、「写真を撮らせていただいても構いませんか」とたずねてきた。彼女は言下の元で拒絶する。
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写真について 17
東京都現代美術館で開催している森山大道 ミゲル・リオ=ブランコ 写真展「共鳴する静かな眼差し」も行ってきた。森山大道はサンパウロの写真を、ミゲル・リオ=ブランコは東京の写真を撮る。
この写真展のために、大道は出展した写真の数十倍、もしくは数百倍の写真を撮ったことだろう。見ることが叶わない写真群が、一枚一枚の大道の写真の背後にある。
僕は思う。大道の写真とは、それが批評家たちが何かを語ろうと、少なくとも彼がシャッターを押した無数の写真の中で、彼が選んだ写真の事だと。写真を選ぶその眼差しの中に大道がいるのだと。
サンパウロの大道の写真はいやに綺麗だった。以前の写真に感じられた、気負いのようなものが薄くなっている。何かの祭りだったのか、写真には人が多く写っている。モノクロで写る人達はそれぞれに楽しげだ。
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写真について 16
愛するものを撮す写真は
常に失敗する
HYの「366日」の歌詞で思うこと
共に暮らすということ あなたを見失うということ 恋はナルシズム だから僕はあなたを見失わない
HY「366日」の歌詞の中で 「こわいくらい覚えてるの、あなたの匂いや仕草やすべてを」の箇所をを聞いて ああ、この恋は既に終わったんだと思った
でも本人はその事に気が付いていない だからこそ切ない思いが伝わるのだ
僕は初恋の人の 顔や声や仕草の一つ一つを覚えている それは既に思い出の写真の中に飾られている
生きるとは動いていると言うことだ 一つに定まらない、ぶれ続けていること 側にいればいるほど、その人の事がわからなくなる それでも構わない 初めて知り合ったように、また始めればよい
おそらく人を愛するということは そういうことのように僕には思える
写真について 15
悲しい写真などない。また喜びに満ちた写真も。ただ私を媒介にして悲しい世界、喜びに満ちた世界が立ち現れるのだ。
映画の場合、悲しい映画は「悲しい映画」として造られる。しかし写真の場合は、例えば我が子を抱いて涙する女性の写真があったとして、それが我が子を亡くして悲観の涙する女性の写真とは限らない、眠る我が子を抱く幸福感に涙する場合もあり得る。テロップがない限りその写真がどのような状況なのかは見る者の世界に委ねられる。でも「眠る我が子」というテロップがその写真にあったとして、実際には亡くなった我が子を抱く写真を使っていたとしたら、写真を見る者のほぼ全員はテロップでイメージが固定される事にもなる。
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写真について 14
先だってNASAのサイトで土星の写真を見た。土星の北極を撮したその写真には、不思議なことに正六角形の縁取りがはっきりと写っていた。赤外線で 撮された写真は温 度が高い赤色で覆われ、正六角形の枠に沿って青色の雲のようなものが漂っている。 説明ではオーロラとの事だった。
その写真を写したのは1997年に米国フロリダから発射したカッシーニという名前 の土星探査機だ。土星軌道に達したのは2004年。それから4年半にわたり映像を 送り続けている。土星軌道に達したときカッシーニはホイヘンスと言う名の探査機を土星の衛星タイタ ンに向けて放出した。ホイヘンスは何事もなくタイタンに着陸し、充電池がなくなる しばらくの間、私たちにタイタンの映像を見せてくれた。
僕はタイタンの地表を見た...
写真について 13
「ハゲワシと少女」から沸き起こった所謂「生命か報道優先か」論争は、現在結果として見えている立場から口を挟むのは卑怯かも知れない。例えば少女の側に母親がいたこととか、そういうことだ。でも一般的には「生命か報道優先か」の問題は常にジャーナリズムにおいて、原則論とは別に、その現場毎に検討を行う必要があるのは間違いないことだろう。ただ僕としては、それ以前に考えたいことは、「何故僕らはこうも写真に動揺するのか」ということだ。例えば、「ハゲワシと少女」の写真を一度でも見たことがある人は、おそらく同じようなことを感じることだろう。「少女はなぜこんな原野に一人残されたのか。このあと少女はハゲワシの餌になったのか」と。この写真の実際の状況は、この感じたこととは違う。この違いはどこから来るのだろう。それは写真が撮す部分より撮さない部分の方がより大きいという事が要因になっているように思える。つまり僕らは撮されなか...
写真について 12
写真を撮ること 2
例えば美しい光景を目の前にして写真に残したいと思うとする。そこで僕はカメラを構えその光景に向けてシャッターを押す。しかし結果的に写真は僕の感動した光景がそのまま写っているわけではない。カメラ・アイが捉える光景は僕の眼が捉える光景とは全く違う。
そうなると僕はどうするのか。僕はカメラ・アイが捉える光景を基準にし、美しさは僕の眼からではなくなることだろう。何度もカメラの液晶画面を確認し、そこで美しい光景を発見するのである。
写真を撮る事は、僕の眼がカメラレンズに代わると言うことだ。これは比喩でも何でもない。視線はカメラのレンズ越しに変わり、そして僕はただシャッターを押し続ける。僕の眼から捉え、僕が感動した心情は、勿論消え失せてはいない。でもそれは美しい写真を撮り得たという達成感に、いつの間にか下回っている。写真の美しさが、目の前の光景に勝るのだ。
写真について 11
写真を撮ること
昨年、僕は「PHOTO IMAGING EXPO 2007」に初めて行ってきた。そこで写真を撮るという行為について、コンパニオンガールを撮る人達を見て考えた。そしてその感想をブログに掲載した。その考えは基本的には変わってはいない。以下に引用する。無論それは僕自身が写真を撮るという行為についても同様であるのは間違いない。
「恐らく、コンパニオンガールである彼女たちにカメラ・アイを向けてシャッターを押す時、撮影者である男性は何も考えてはいない。 そこにあるのは、ただ時間を消費する姿である。パチンコ店でパチンコをする人は、同じ連続する行為の中で、 擬似的な労働をしていると言ってもよいかも知れない。それと同様に、撮影者がシャッターを押すのも擬似的労働の一環である。...
写真について 10
約15年前のケビン・カーターが撮った「ハゲタカと少女」の写真から来る論争を記憶されているだろうか。「生命か報道優先か」で問われた論議は決着することなく霧散していった。ただその多くはケビンへの批判だったと伝えられている。
ある学生がこの写真を元にフォトジャーナリズムについて論文を書いた。僕はネットで彼の論文の趣旨を読んだ。彼はこの写真には三つの命が写っていると言う。一つは倒れ餓死寸前の少女の命、一つはハゲタカの命、そして最後にこの写真を写しているケビン・カーターの命。
でも写っていない命もある。後の証言でわかったことだが、この少女の母親の命。側にいたケビン・カーターの友人の命、そして他の母と子の命。ケビン・カーターがそれらを撮さなかったのは、当然に写真の構成の為だ。より強度を増させるために、わざと遠近法を用いた構図を用いたのであろう。
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写真とは 9
報道写真について
報道写真には写真として観たときにつまらない物が多い。それには勿論理由がある。写真は被写体を美しく描く。それはおそらく写真の本質部分に関わる部分だと僕は思う。仮に悲惨な状況を写真に撮ったとき、その悲惨さが美しく写し出されたらどうだろうか。おそらく批判が殺到することだろう。よってわざと報道写真、特に新聞などに掲載される写真は「写真」を崩すのだと僕には思える。つまりは新聞などに掲載される絵は「写真」ではないのだ。
ソンタグはこの点について、写真は記録を作ると同時に視覚芸術作品も創るという二重の力の間で対立がおこると語っている。
写真には常に何かが写っている。何も写っていない写真は写真ではない。黒一色の写真を持ち出し、漆黒の闇を写し出したと言ってもそれは写真ではない。虚空を撮したと言い、白一色の写真を提示してもそれは写真ではない。
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写真とは 8
『カメラとともに繰り広げられる緋リアリズムのゲームの力を借り、切り取られた場面の沈黙と不動性、運動や色彩の現象学的還元を介して、写真は最も純粋かつ最も人口的イメージとして立ち現れてくる。写真は美しくない。写真は醜い。しかし、そのようなものとしてこそ、写真は、美の原理がまさに衰弱するのを目のあたりにしている世界であって、モノの力を身に付ける。』
(『消滅の技法(アート)』ボードリヤール)
写真とは 7
『写真を、現実の痕跡としてではなく、純粋に象徴とみなす行為は、視覚の矮小化である』
スーザン・バック=モースのこの言葉は、清水譲の『「世界と私」 に対するエポケー』とほぼ同じだと僕には思える。ただ違うのは、スーザン・バック=モースがこの・あの現実と個別を念頭に置いているが、清水譲は一般を語っていることだ。
「現実」とは構造付けされた世界の亜種とも言える。また「傷跡」を「エポケー」と言い換えることにも抵抗はある。
しかしそれでいてスーザン・バック=モースの言葉に説得力があるのは、写真が持つ一つの威力を私たちが知っているからだろう。
ベトナム戦争で無残にも原型をとどめないくらいバラバラになった死体を持ち上げ笑う兵士の写真、こめかみに銃が突きつけられ今まさに殺されようとする瞬間の写真。それらの写真を見る際、写真は「これが現実だ」と有無を言わさず突きつけてくるのだ。
写真とは 6
清水譲は語る。
『写真の衝撃とは、現象学的還元のそれと同質である。つまり、写真が実行することは、「世界と私」 に対するエポケーなのである。それは「私とそのまわりの世界」という自然な考え方を失効させる。』
これはどういう事か。続けて清水譲はそれに応えて続ける。
『写真とは、 ある自我=主体が自分のおかれている世界をありのままに撮影するなどということではなく、 そのような主客分離に先立つ世界の有り様を写し取ることなのだ。・・・(中略)・・・あなたがいて、世界が在って、それをあなたが見ている、のではなく、 あなたとはあなたが見ている世界である。』
注意して欲しいのは、(中略)を挟む前後の文章である。動詞が前では「撮影する」「写し取る」となっているのが、後では「見ている」となっている。主語が「写真」と「あなた」の違いが在るが、何故「撮している」とは書かなかったのであろうか。
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写真とは 5
なぜ人間は良い写真を「良い」と瞬時に見分けることが出来るのだろう。僕のこの問いは矛盾に満ちている。最初の「良い」と二番目に使われた「良い」の内容は違うのだから、「良い」と瞬時に見分けると書くこと自体論理的ではない。また見分けるとは、「良い」という定義を知っていなければならない。「良い」・「美しい」という言葉が現代においてある種の文化コードによって書かれているのであれば、僕は今を生きる中で文化コードを抽出しそれを外部に取り出さなければ定義など知るよしもない。それは水の中に住む魚が水の外で生きようとするに等しい。ゆえに僕は見分けること自体難しいことになる。
でも僕はある写真を眺めるとき、僕の身体的感覚の内からその写真の良さを実感するのである。これはどういう事なのか。
写真とは 4
学生時代に僕は一編の詩に出会った。その詩は詩人とある女性との手紙のやりとりが主軸となって構成されていた。特徴的なのは詩の概ねが年月と住所の羅列であったことだ。時には宛先不明の戻りを含めた一連の羅列は、それであっても十分に詩として成立していた。とても印象的で美しい詩だった。
なんでこんなことを書くかと言えば、写真のタイトルについて考えたときに真っ先に思い出したのがその詩だったからだ。年月と住所の並びは宛先である女性の生活の変遷が顕れていた。写真のタイトルと宛先が同じであるとは全く思わない。写真のタイトルはソンタグが言うように写真の方向性を見る者に強制する。宛先はその人の衣食住に、つまりはより「生きる」という根っこの部分に関わり合っている。詩の中で宛先である住所は彼女の身体と同じであった。それは意図的な装飾を与える隙間さえなかった。
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写真とは 3
写真にとってカメラは二次的な存在であるとしても、カメラが写真にとって重要であることには変わりはない。カメラはその構造上三つのモデルに分解できる。入力部・カメラ部・出力部である。問題なのは中央のカメラ部であることは間違いない。写真を表象として捉えた場合、スタイルを決める手っ取り早い方法は入出力部を定めることにある。つまり入力と出力のパラメータを変えることだ。しかし写真が写真として成立するのはカメラ部なのだと僕は密かに考えている。カメラ部とは具体的に何か?それは単なる暗い部屋(空間)である。
写真とは 2
写真一般を考えたとき、カメラは二次的な存在になるのは当然の帰結だと思う。清水譲は写真とは凡歴史的な存在であると語っている。確かに日本において「写真」は「写生」と同様に使われる言葉であった。幕末の似顔絵師達は彼らの仕事場に「写真」とのれんを掲げた。そして似顔絵師達の多くは写真家になった。写真と言う言葉は常に「顔」と共にあった。無論清水譲の凡歴史的とは江戸後期の一時代を示す言葉ではない。ただここで直感として語りたいのは、「写真」と「顔」とは密接な繋がりがあると言うことだ。
僕はフォトグラフの語源からよりも「写真」という言葉が逆に写真の本質に近いように思える。
写真とは 1
カメラアイに語られる光景と人間の眼に語られる光景は全く違う。どちらが正しいのかとの問いは全く無意味だろう。そもそも人間同士であっても見ている世界は違うのだから。そう言う意味で僕はストレートフォトの表現としての考え方に一線を設ける。