「反市場主義」「反グローバル化」を唱えるだけでは情緒的反米主義と大差ない。各国が内向きの政策に傾いている今こそ、日本はグローバル化や市場自由化を進化させる改革を推し進め、新しい国際協調体制づくりをリードすべきだ。日本ほど経済の自由化やグローバル化の果実に助けられ発展を遂げた国はない。後に続く多くの貧しい国々も同じように恩恵を受けられるようにすることは、この国の責任であり利益にもなる。
– 社説:視点 衆院選 金融危機後 「反市場主義」が答えか=論説委員・福本容子 - 毎日jp(毎日新聞)「剣岳 点の記」を観てのきわめて短い感想
久しぶりの映画館。
カメラ出身の監督だけあり、山々の描写が美しい。
この映画のコピーとして幾つかの言葉が並べられている。例えば、「誰かが行かねば、道はできない」、もしくは、「人がどう評価しようとも、何をしたかではなく、何のためにそれをしたかが大事です。悔いなくやり遂げることが大切だと思います」、など。
でもこの映画のメッセージはそれらの言葉にあるのではない、と僕には思える。
まさしくカメラ出身の監督だけあり、カメラワークにこそ、この映画のメッセージはあると思うのだ。
映画のカメラワークは、山の内と外では違っている。山の内では、山々の自然の壮大さ美しさ、そして人間の小ささがでている。山の外、つまりは社会では、屋内での撮影が多い。
また、人に対しても、山の内では謙虚さが映し出され、山の外では感情が面に現れる。
映画の終わりに、測量隊と山岳会はお互いにエールを交換する。そして互いに仲間であることに気がつく。そして終演。スタッフ紹介のテロップが流れるその先頭には「仲間たち」と書かれている。
自然の中で、人間は謙虚になる。そしてその中で、互いに競い合う者たちは、敬愛の情を抱く。これらカメラワークによって、そういうような印象を観客たちは感じることだろう。
ただ当然のことながら「仲間」には、陸軍の上司たち、新聞記者、立山信仰の村の人たちは含まれてはいない。「仲間」に「みんな仲間」などという線引きはありはしない。
この映画についてはもう少し自分の中で整理が必要と思っている。そのうちにブログに書くかもしれない。
「地球」という言葉
多くの言葉には人間が内包されている。それは「地球」も例外ではないと僕は考える。特に「地球」という言葉には、地球上のあらゆる生命とか環境も含まれていると考えて間違いないように思う。だから、「地球のため」もしくは「地球を救う」とは、「人間のため」「人間を救う」も内包されていると僕には思える。
寄生獣のミギーは次のように語る。
「わたしは恥ずかしげもなく「地球のために」という人間がきらいだ・・・・なぜなら地球ははじめから泣きも笑いもしないからな」
人間以外の生物に語らせることで、「地球」という言葉から人間を除外するすることが出来た。
逆に言えば、仮にミギー(人間以外の生物)が実際にいて、上記の様な言葉を語ったとしたとき、それが人間の言葉を使ったとしても、正確にその意味を人間が知ることは不可能だろう。例に引いた言葉も、実際には「暑いからアイスでも食べよう」と言っているのかもしれない。
でも実際に、ミギーのように「地球」を語る人は多い。しかしそれはその語り自体に矛盾があるように思う。人間の言葉から人間を排除すること自体、それは不可能だと思うのだ。
アンソニー・スアウ氏の言葉
Q.私たち日本人としては、戦争より経済的な動乱、製造業の落ち込みなどの方が身近で大きな問題と考えますが、そういったものを撮っていく考えはありますか。
A.私が撮ったイラク戦争は、これまでとは違った視点、すなわち米国内の動きから見たものです。どうやってイラク戦争というものが作り上げられたか、どうやって皆がそれに乗っかって戦争が始まってしまったのか、それを描きたかった。
日本の場合、北朝鮮が距離的に近いわけです。北朝鮮と日本の対立は、米国にも無関係ではなく、これからもっとかかわってくると思います。海外の戦争は、遠いところで起きている感じがしがちですが、米国も真珠湾攻撃や「9.11」があって初めて戦争というものをリアリティを持って感じました。そういう形で素早く自分にも関係してくる。あなたもそうした一人です。北朝鮮に非常に近いところで暮らしているのだから、経済とか政治とか分けるのではなく、全部がかかわってくる可能性があります。いろんな形で興味、関心を持ち続けてほしいですね。
(アンソニー・スアウ 「世界報道写真展2009」東京開催により来日、2009年6月13日講演での質疑応答から)
NHK土曜ドラマ「リミット 刑事の現場2」に見るLimit
NHK土曜ドラマ「Limit 刑事の現場2」では、登場人物の多くが「本当」を口にする。
「お前は本当に彼女を愛していない」
「お前は本当のことをわかっていない」
独善的と思える言葉は、しかしおそらく文法的には正しい。
「本当」を理解しているのは常にこの「私」しかいないのだ。
そして、この「私」が実感を伴い認識する「本当」は、本当としか言いようが無い。おそらくそれはこの「私」にしか語れぬ言葉なのだろう。
「本当」と語らせる台詞の多さは、現代を現している様に僕には思える。
他者との関係から私が作られる、そんな一般的に流通している考えが揺さぶられているような、そんな時代背景。他者との関係から確立する私だけが「私」ではない、という思い。よく語られるように、ここでも振り子のゆり戻しがあるのかもしれない。
しかし「私」だけが「本当」を知っている、その他は偽物だという思いに理由も無く囚われることが、それが原理的に「私」に与えられた宿命だとしても、良い悪いの価値観をそこに組み込めば、少なくとも他者との関係にとっては良いことではないように僕には思える。
そういう意味でNHK土曜ドラマ「Limit刑事の現場2」は、そのタイトルどおりに、人間の一つのLimitを現している、僕には多少の戸惑いを持ちながら、そう思えるのである。
寺尾沙穂の奇跡
人は言葉に縛られる。人の限界は言葉の限界とも言えるかもしれぬ。そんな具にもつかぬ事を考える。わかっている、それは陳腐で浅い考えだと言うことを。
寺尾沙穂の音楽を聴いたとき、言葉の向こうに辿り着ける可能性を感じた。それは幻想なのかもしれない。昔、伊勢神楽に我を忘れ吸い込まれるように観たことがあった。薄暗い神楽殿の中で巫女が掲げる白い手は何かを語っていた。おそらく神との対話は言葉を使わない。でもやはり巫女の白い手は言葉だったように僕には感じられたのだ。言葉の壁を突き抜けた先にある言葉。それは人間の言葉にはなり得ないとどこかの哲学者が語っていた。
寺尾沙穂の音楽に同じものを感じたと言えば大げさだろうか。彼女は間違いなく人間の言葉で歌っている。もしかすれば、彼女の声と旋律との狭間にある、文章で言えば行間に漂う何かが、僕にそう思わせたのかもしれない。それは「何か」としか僕には言えないし、この思い込みとも言える物言いに、しばらくは浸っていたいのだ。
苦しいところから始まって、苦しさからつらさになって、つらさを超えたら心の痛みになった。最後は笑顔になれた。最後の打席では神が降りてきましたね。自分(の心の中)で実況しながら打席に入った。一つ壁を越えた。(イチロー2009年WCB優勝インタビュー)
ドラマスペシャル「黒部の太陽」
フジテレビのドラマスペシャル「黒部の太陽」を二日続けて観た。そうそうたる役者たち、しっかりとした脚本。これで面白くないはずはない。 前編後編とも2時間半という長時間だが、その長さを感じることはなかった。
社会性を帯びたドラマを見るたびに、何故今このドラマを、と思うのは私の悪い癖だろう。実際にはそれほど深い意味などあるわけではないのだ。ただ、「黒部の太陽」を見て、これは不況下で元気のない社会に向けられた応援歌に近いのではないだろうか、などと偉そうに思ってしまった。それほどに「黒部の太陽」に登場する人々は熱かった。
この熱さはひとえにその時代性にある、などと一定の距離を置こうとするが、それはそれで誤っているのもわかる。なぜなら、昭和30年の難工事を描こうが、そのドラマを制作したのは今であるのはあきらかなのだ。
昭和の難工事を今の視点で描く。ゆえにその熱さを持続させるために、ドラマでは何度も仕事への意義が語られることになる。これもまた、主人公である香取真吾が語る、「これが俺の仕事なんだ」という一言に、これもまた今的だろう、集約されていくことになる。 逆に言えば、日本の電力事情、国家のため、などという意義はもはや現代では通用せず、あるのは自分の仕事と仲間のため、ということしかないのだということなのかもしれない。