見合わせ桜
「江戸の昔には〈見合わせ桜〉という言葉があったという。鶴ヶ谷真一 さんの随筆集「月光に書を読む」(平凡社)を読んでいて教えられた。 遠方の桜の開花を知るために、江戸人はそれと開花期を同じくする近く の桜を見定め、これを〈見合わせ桜〉と呼んだという。」
(2009年3月20日01時44分 読売新聞)
「見合わせ桜」が死語となっていった時期は、日本の殆どの桜がソメイ ヨシノへと淘汰されていった流れに重なる。江戸人にとって花見の期間 は約一ヶ月であった。ソメイヨシノ以外の多くの種類の桜が身近に咲く からこそ「見合わせ桜」が成り立つのだと思う。
一つの言葉が失われるとき、失ったのは「言葉」だけではない、と僕は 思う。ただ、失われた以上、その失ったものを洗い出すのは不可能でも ある。ゆえに、逆に「失われなかった」ものも同様にわからない、とい うことだろう。ただかつて「見合わせ桜」なる言葉があった、というこ とだけなのだ。 記号としてみれば、指向性なき記号。それはあてもなくただ浮遊する。 掴まえるためには、現在の私たちの「思い」で織られた紐で結びつける ほかはない。
0 notes
POSTED Monday March 23rd